生命(いのち)の神 2015.02.01 |
教会ができてからざっと四十年。 いろんなことがありましたけれども、ここまで来させて頂いてありがたいことです。 先代先生のみ教え、また大先生の教えを頂いたものが伝わってきたおかげで今がある訳で、どうぞこれからも生きた信心を私どもが勉強させて頂いて、子供たちや孫達、また次の世代に受け継がせていただく、というおかげを頂いてまいりましょう。 神様のおはからいはそこにあると思うんです。 分かってほしい、助かってほしいという神様の願いをしっかり受けさせていただきましょう。 だけど、皆様、子供たちを責めたってどうにもなりません。 それよりも私どもがしっかり信心を頂いて、お道の信心のありがたいところ、魅力をもっと現させて頂きたいものだと思います。 皆様、信心させて頂いて何が有難いですか。 それは、みんなおかげだということが分からせてもらえる、ということです。 おかげでないものは無いんだということです。 命を頂いているということ自体、この地球に居らせて頂いていること自体が、もうおかげの中に居る、ということです。 だから教祖様は、信者さんに『おかげの中で生まれて、おかげの中で生きて、おかげの中で死んでいく』と、こうおっしゃった。 そうしたら信心さんがみな感動された。 私どもはしょっちゅう聞いてますから、当たり前でしょう。 だけども当たり前じゃないのです。 言い換えると、神様が全面保障してくださる、ということです。 もうこれしかないのです。 ですから、楽なときもあれば苦しい時もありますけれども、全部それは、神様が育ててくださる。 何もかも愛のレッスンなのです。 ちょっと気持ちを変えてみられたら、なんやかんやクヨクヨいろんな心配事ばかり思っていても、命が無かったら話にならないのだから、とそう思ったら、命があるんじゃけえ何とかなる。 それです。 なんにしましても、おかげの中でこうして私達は神様にお育て頂いているということです。 「こんなことが」というようなことでもね。 どうぞそこを忘れないでください。 そうするとそこからまたおかげをいただけます。 それを忘れてしまうと不足ばかりになってしまって「ああ参ってもなあ。」とこうなってきて、希望も見出せません。 そうではなく、辛い苦しいところから、命を頂いているおかげなんじゃなあと思って、ここを神様は願ってくださるんだなあ、と思って一歩進んでいかれると、また違ってきます。 今年も、生きた神様を頂く稽古を、みなさんと共々にさせて頂きたいと思います。 (親先生のお話より) |