「我賀心」  2014.06.01

 昨年六月、教会の掲示板に「生きて安心、死して安心」と掲示致しました。
 「生きて安心」とは、何も思うことが無くなるということではないと思います。
私たちは日々いろんなことを考え心配していますが、こうしたことがかえって人生のためになっていますし、案外それが命を頂いている証拠だということです。
命があるから色んなことに悩み、それが生きる喜びなのです。
そういうことがあるから人生八十年生きていけますが、これが何もなく、「爽やかに暮らしましたとさ。」では、暇で暇でしょうがないでしょう。

 では「死して安心」とはどういうことでしょうか。
これは死んでみないと分かりません。
いつ何時お呼びがかかるか分かりませんが、お年寄りが先に逝かせてもらい、若い人が残り、順番通りいかなければなりません。
そして、みなさんの生活が後々も立ち行くように続いていなかなければなりません。
それが安心、安心立命ということです。

 信心の世界は目に見える世界を越えていくのですから、ちょっと難しいです。
現象に騙されたら信心になりません。
目に見えない世界によって支えられているということや、親の恩や天地の恩が分からないと信心できません。
目に見えるものが全てではなく、目に見えないもののおかげによって支えられているということをよくよく教えていただきたいですね。
空気は見えないけれども葉っぱが動くことによってその存在が分かる。
また重力があるおかげで引っ張って頂いているからちゃんと座っていられるのです。
それらの働きを頂いてこその「今」です。当たり前が当たり前でないことをよくお礼申さないといけないです。
眠たいのも痛いのも痒いのも、命をいただいているからです。

 玉水初代大先生のお言葉に、「信心はそこそこ話を聞いたら、何をするかということが分かる」とあります。
みんな信心はどうすればいいか分かっているはずですが、信心の格好だけしていることを怒っておられます。
体裁だけでね。
そんなことをしているから家族がこっちを向いてくれない。
だから本当の信心をしないといけないのです。
日々命をいただいていることを喜び、その喜びをもっともっと大きくして家族に伝えていかなければなりません。
だから明るく楽しくやってください。
今日も帰ったら、疲れていても「あぁしんどい」と言わず「ありがたい」と言ってください。

 みんなが神のおかげを無視し、勝手な生き方をするから困っているのです。
それが安心をいただけない元になっています。
では、どうすればいいか。
今を喜ぶ、おかげを喜ぶ稽古をさせていただきましょう。
しんどい事もおかげだと思ってさせていただければ、楽なことは尚おかげです。
しんどいからおかげじゃないとか、都合が悪いからおかげじゃない、とかいうことがおかしいのです。
悪いこともおかげにしていただけばいいのです。
「おかげは我賀心」、我賀心でなんでも覆い包んでいきたいですね。

 (親先生のお話より)

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