「超 我」 2012. 3. 1発行 |
玉水の大先生は、親孝行ということで「親の思いを自分の思いにして親の心に添うように」と言われています。 このことは、親も子も両方にあてはめることができますし、他人との人間関係においても同様に考えることができます。 相手の思いに合わせて、お願いをしていけば円満にいけるということです。 例えば、障子が合わない場合、建具を削ったら早く入ります。 敷居を削るよりも、建具を削る方が早いですよ。 ですから、自分の方を早く削らせていただいて、合わせていくようにお願いしていくのです。 合わす (削る)ということが修行なんでしょうね。 これは、我を超える。 「超我」ということです。 「我を離せ」とか「我を捨てる」よりは、「超我」の方がかっこいいですね。 我を超えるためには、やはり祈りで超えていくのです。祈るということは、自分です るのとは違い、神様のお力を借りるわけですからすごいです。 信心というのは、いい按配の所を悟らせてもらうことなのですが、このいい按配というのは、つまり神様のことなのです。 やじろべえは、左右に、前後にと揺れ動きます。 丁度いい按配というのが、真ん中です。 揺れているというのは我が出ている状態で、左右、前後落ち着いていれば、それが真理なのです。 丁度真ん中。これが一番大事なんですよ。 それが、神様になるんです。 神様絶対というのは、それですよ。 だから、高須教会でも、一番真ん中は神様でしょ。 偏るということは、神様から外れていっているということです。 皆さんは、お広前に入っておられるから良かったですね。 よう入らない人もいるでしょ。 それは、神様から遠いんですよ。 だから、お参りされているということは、神様に近いということになります。 そして、信心してお話しを聞いていると、「自分は右に、傾いているな。」「自分は、左だな。」ということが分かってきます。 お願いの仕方も分かってくるから、ちゃんとツボにはまってくるのです。 祈るということは、その真ん中へいくということなのです。 それが分かれば、親子関係にしても人間関係にしても問題はないんです。 たとえ親に問題があり間違っていても、子供としては親孝行ととらせていただき、親に合わせていきなさい。 そして、神様にお願いして下さい。 辛いけれどお願いしていれば、間違っていても歪んでいても神様がちゃんと戻して下さいます。 歪んでいれば歪んだように、敷居に入らなければ建具を削ってでもはめていって下さい。 そうして、親子仲良く成長していけばいいのです。 そのことを、神様は一番喜ばれます。 親子仲良くするということは、それだけ繁昌するということです。 金光教は「信心は親に孝行するのも同じこと」といわれています。 だから、親孝行を外したら、もう信心にはならないのです。 (親先生のお話より) |