「信心信念」 2010. 4. 1発行

 お礼とお詫びとお願い。信心をするきっかけがどんなことでも、これは大事なことです。

玉水初代大先生の生き方というのは、神様がおかげを下さっている。

自分は無力だからお礼を言う。無力だからお詫びをする。無力だから祈る。というものなのです。

私共は死んでいてもおかしくない身でしょ。

「命があるからありがたい。生かされてありがたい。」という原点に戻ってスタートしなさい、ということですね。

だから、「お礼が先」と言われています。

 次は、お詫び。悪いことをしたお詫びではありません。

お礼が足りないことをしっかりお詫びするのです。

ご無礼とは、お礼が足りないことを言います。

今日まで生かしていただいているのになかなかお礼が足りません。と、ご無礼のお詫びをするのです。

悪いことをしたのは話になりません。

そんな時は、人間としてどうあるべきか考えてください。

そして、なお一層願って足して頂くのです。

祈りをしない人がいますが、祈ってないと失速してしまいます。

車はアクセルを踏まないと前に進まないでしょう。

信心も祈っていかないと信心のない人と同じになります。

 玉水初代大先生は「信心信念、岩をも溶かす」ということをしっかり強調なさっています。

だからといって、決してお礼・お詫びをおろそかにしてはいけません。

祈るためにはお礼がいるのです。

 喜んで祈ると、喜びが推進力になって、ものすごく効果が出ます。

おかげが頂けない人は不足言って祈っているのです。

不足を言って祈っていたらダメですね。

喜びとお礼をしながら祈ると、すごいパワーが出るのです。

例えば体調不良の時、「生かして頂いてありがとうございます。それなのに、その喜びを知らずに不足ばっかり言って申し訳ありません。今日はしんどいけど明日は良くなるんだ。寝ている間に良くなるんだ。」と言っていたら、明朝、体が軽くなります。

しかし、そんなことをしたって良くなるわけないと理屈を言う人がいます。

そういう人達は、効果が出ないから信心をしていても面白くないでしょうね。

信じてやったら効果が出ると何回も言っておられるのに、もったいないことです。

 神様は命のもと。私共を生かしておられる働きそのものなのですから、神様を無条件で信じて、偉大な方としてしっかり頂いていたら何の問題もありません。

どこへでも行かれるし、命が無くなるその時までも神様はちゃんと救って下さいます。

 先代先生の話された教えが私共の初代を助けてくださったのですから、その教えをそのまま信じることが私共二代、三代の信心でしょう。

先代先生の教えを疑っていたら話になりません。

一生懸命に信じて、家族で喜び合う稽古をして頂きたいと思います。


          (親先生のお話より)