「本体界」 2010. 2. 1発行

 信心というものは「長い間、続けないと助からない」というものでもないと思います。

その人のセンスにもよる。苦しんでおられる状態によっては、一度話しを聞いただけでも助かる人は助かるものだと思います。

苦しんでおられただけ早く気がつかれ助かっていかれるのでしょう。

 信心の古い方の中には、「信心」ということについてのとらえ方が二通りあり、受け取り方が違えば結果も違って来ます。

 一つは「おかげを頂きたいために信心をする」、もう一つは「自分が助かりたいために信心を進める」の二通りのようです。

勿論、私は後者の受け取り方がいいと思います。「おかげを頂きたいために信心をする」のでは目標が小さいです。

これでは消滅界の願いの成就だけでしょう。「本当に助かる信心をする」ということは「本体界の成就」を願うことです。

 玉水の初代大先生は「私も本来はおかげ欲しやの信心からの出発でした。

が、そこで終わらないで、おかげ欲しやの信心から助かる信心へと変わりました。」と言っておられます。

信心の出逢いはどんなことからでもよろしいが、いつまでもそこで止まってしまって「おかげ欲しや」ばかりでは助かりませんよ、と言っておられるのです。

神様は「分ってくれ、分ってくれ」と言っておられるのですが、殆どの人は「おかげ欲しやで神様なんてどうでもいい」ようです。

だから「教会の行事なんてどうでもいい。私には関係ない。」という人が多いのです。

「自分さえよければいい」という生き方では助かりません。

いくらおかげを受けていても心が助からないのです。

 又、玉水の初代大先生は「皆さん、神様に触れて下さい。」とくり返し言っておられます。

私共の心情を「本体界」という所に入れて頂かないといけないということです。

皆さん、「天地」が神様のお住まいです。

そこに住んでおられる偉大なるお方、神様は大きさはわかりません。

必要によっては小さくもなり、大きくもなられて変幻自在です。

祈る私共の身の丈に合ったおかげを下さるのです。

 「神様は偉大だ。」と頂けば偉大なお方であるし、「そうでない」と思えばそれだけのものです。

私共の信心の中身が問われる訳です。

 こんな立派な神様なのだから本気で信じればもっとおかげが頂けるでしょう。

皆さんも「助けて頂かないと話しにならんなあ。」といつも思って、黙々と縋っていって下さい。

そうすれば、助けて下さいます。お道の神様はそういう神様です。天地の本質です。

私共はその本質に触れている訳です。この本質をずうっとつかんでいると「おもうままのおかげ」が頂けるようになるそうです。

凄いですね。ぜひ、そういうおかげを頂きたいものですね。
         ゛
          (親先生のお話より)