「宝の山」  2009. 6. 1発行


 おかげを受けるには、神様にどのように手を出したらいいか。

それは、目標を高く特って頑張ったら良いのです。

 信心をしているのに、住む家が段々小さくなっていくようではつまりません。

段々に住んでいる家を大きくして頂き、別荘ぐらい建てて頂きたい。

職場でも立身出世のおかげを頂かれ、病根も無くして頂く。

そういう信心を頂けるように頑張らして頂けばいいですね。

 しかし、参ってもおかげが無いというマイナス思考の人がいます。

そういう人はいつも、支払が出来なかったらどうしようか。

病気が悪くなったらどうしようか。と悪い方にばかり気持ちを向けています。

そうではなく、金銭・病気・人間関係など、今、手元にある問題を良い方に変えて行く努力をしたらよいのです。

 三大苦は誰にでもあります。先代先生は三大苦にみな当たっていますが、特に病気が大変でした。

だから信心なさったのですが、信心したらすぐ良くなったかというと、そうではないですね。

信心されていても、いろんな人から中傷されたり誤解を受けたりと辛い目にも遭われました。

 私共は神様から生命を頂いています。目には見えないですが、この生命は神様なのです。

神様が私共を生かしてくださっている以上、難問はついてまわります。

しかし、この生命は金には代えられないものですから、難問が起こるのも生命があってのことだと言うことがわかりますね。

生命があればどんな難問も解決することができます。

 神様は「難問を通して『助かるということ』をわかりなさい。」と言っておられるのです。

自らが助かり、教われると神様がおって下さるということもわかる。

そして神様がおられるということがわかると「おかげがある」ということもわかりますね。

 信心の辞書には「おかげがない」という文字はありません。

しかし、私共は不足がいっぱいです。宝の山に居りながらそれを活かそうとしていない。本当に残念です。

信心は義務的に頭を下げるものではなく、三度三度の食事のように「せずにはおれないもの」なのです。

 私共は生きた神様を信心しています。立教から百五十年。

教祖さまのご結界から、今日に至るまで金光教は続いているのです、生かして頂いているのなら死んだような生き方ではなく、この生命を一生懸命に考えて一つ一つおかげを頂いていけばいいのです、世のため人のためにお役に立たせて頂き、教祖さまから伝わっている「このお道の信心はすばらしい」ということを広げさせて頂けるよう、喜びいっばいに生かして頂きましょう。

そして目にもの見せるようなおかげを頂いて参りましょう。

          (親先生のお話より)

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