おかげを受けたかったら、我が心がどんな心か調べてみることです。
「表行より心行をせよ」という教えがありますが、今の玉水の親先生は「こだわらずにやりなさい」と言っておられます。
いかにすれば信心になるかを考えていくと良いです。
玉水初代大先生は、師匠に「このお道の神はどこにでも居られる神です。
別に教会にお参りをしなくても良いのではありませんか。」と、尋ねられたことがあるそうです。
すると師匠は、「どこにでも居られる神だから私達は引き寄せられる。
神様は、私達がどれだけ神様を信じているかという私達の行動を信心の行として日々、見ておられるのです。」と、言われたそうです。
神様は、私共をみておられるのですから、ごまかすことはできない訳ですね。
時にはやる気があまりなくても、棚からボタモチのおかげを頂くことがあります。
かと言って、いつも同じようにはなりません。
信心になるには、私共の姿勢が大切なのでしょう。
私は時に、「自他力」のお話をしますが、自力でも他力でもない、自分が信心しているようでも、実はさせて頂いている。
お参りをしたと言っても、参らされたというところもある。なかなか言いにくいですね。
しかし、信心がなかったら参ってないでしょうから、信心させて頂くことによって、お参りさせて頂いている訳ですね。
このお道の信心は、しっかり神様を頂いて道がつけぱいいのです。
私共は身の回りに起こってくるいろいろな問題を乗り越えさせて頂き、日々をしのがせて頂くことです。
それが、道がつくということでしょう。そういうおかげを頂いて行けば良いと言って下さり、本当にありがたいですね。
日本人は現在、恵まれているから、何事にも「当然だ」と思っていて、感謝不足になっているのかもしれません。
辛い、不幸だなんて思っている人は、不幸な人です。
全て、生かして頂いていればこそと、思うと神様の働きがすばらしいことがわかります。
自分だけが不幸ではないのです。先代先生ご夫妻は、生まれながらに、幸せの薄い方でしたが、信心をされ、おかげを頂かれました。
だからこそ、高須教会や私共の今日があるということを忘れないで下さい。
そこに思いをよせると、日々のみなさんの苦労も忘れられるでしょう。
時にはアホらしいと思う日もありますが、私共には、天地にお縋りしていくことしか出来ないのです。
「信心する」とは、どう言うことか。
それは、「天地の働きと一つになる」ことです。祈る・縋ることは大切なことなので、みなさんで話し合って下さい。
教会長先生のお話より
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