信心とは、「神様に生かされて生きていることをわかれ」ということです。
「神あっての氏子、氏子あっての神」という教えがありますね。
私共は、神様に生かされているということです。
だから、神様を離してはいけないのです。
神様から生かして頂いていることを自覚して、神様にお礼申していくことが信心なのです。
だから、「生かされていることが分かっている」だけでは駄目ですよ。
生かされていることが分かったら、神様に心を向けて行動、実践していくのです。
「天地の御徳に対しては、身を粉にしても奉ずべし」なのです。
私共は全てをおかげ頂き、その中に生かされて生きているからです。
おかげを頂かない人は「自分は何も悪いことをしていないのに、何でおかげが頂けないのか」と言われます。
でもね、そこにはやっぱり頂けない原因があるからですよ。
自分が一番で、神様を生かしてやっているような思いになっている。
人間の貧しい想像力で神様を観ているのでしょう。
そういう自分であることに気付いていない。
一寸先が闇の世の中で、神様は先が見えておられても、人間の私達は「一寸先も見えない者である」ということがわかっていないからでしょう。
だから、神様に「有り難うございます」の心を捧げないといけない。
口先だけではなく、それを体で実践していかないといけないのです。
神様は、善悪まぜて、どんな人も生かして下さっています。
泥棒でも罪深い人でも生かして下さっています。
神様は懐の深い方です。だから私共は、生かされていることをもっと喜んで、家族にももっと話し伝えること。
それが「神様にお礼を申すことになる」と、私は思っています。
こういう姿が「あいよかけよの姿」だと思いますし、そこにおかげがある。
神様のお働きが頂けるものだと思います。
こういう思いに繰り返しなっていくように訓練していると、やがて綿あめのように、おかげが次々に出てくるようになります。
割り箸を持っているだけで、おかげが次々に出てくる。
「もういいよ」と言うてもドンドン出てきて、おかげの綿あめが手にも背にもついてくる。
最初は要領が分からなくても、続けておればコツが分かり出てくるようになります。
でも、材料を入れないと湧き出てきませんね。
その材料というのは「あいよかけよで立ちゆく」ですから、そういう生活になるように努力していくことです。
皆さんも難しい顔をなさらないで、家族の上にも、もっとやさしい目を注いで頂かないといけないと思います。
何にしても、今現在を生かして頂いているのですから、不足を言わないで楽しく生かして頂きましょう。
難しい顔で暮らしていると、貧乏が寄って来ますよ。
だから、「辛く悲しくても苦しくても、まずお礼を」という生き方をしていきましょう。
一生懸命に明るく楽しく、前向きに生きる生き方。
そういう努力する姿勢が、神様から頂いた生命を精一杯に生きる人の姿だと思います。
(親先生のお話より)
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