教祖さまは、「何でも願え、箸が転げた事でも願え」と、言っておられます。
それは、信心の基本的なことです。
しかし、「人を殺しますが、うまく殺人が出来ますように。」のような、筋の通らない事はいけません。
「何でもハイハイと一応は受けなさい。
しかし、お火鉢の方へ誘ったりして、その願いが間違っている事をよく話してあげなさい。」と、私は銀座の初代大先生から教えて頂きました。
お願いは何でもできます。
しかし、「人を殺したい」というような憎しみのお願いはいけません。
願いは「すべてのものが幸せになるように」ですからね。
私達は、信心生活をしながら社会人として生きているわけですから、世の法律に反した事はいけません。
社会生活に順応していけないようでは、信心も出来ないわけです。
社会生活のルールの中に信心の道、神様への道があるわけですから、まず人の道を守りながら神様への道を求めて行くこと、頂上を目指して歩むこと、人の道を極めること、これが「助かること」なのです。
しかし、人の道を極めても限界があります。
神の道を極めさせて頂くことが私達信心する者の目標でしょう。
倫理道徳というのがありますが、信心はその上をいくものです。
「人は人の上に人を造らず、人の下にも人を造らず」とありますが、これは、倫理道徳ですね。
人は平等であるということです。
玉水初代大先生は、「こうした中でも縋ってくれば助けてやるぞ」とおっしゃっています。
だから、縋って行かねば損です。
神の道は広大です。
信心の道を登っていけば、神様に生かされている自分達であることがわかります。
それにはまず、社会のルールと法律を守ることです。
守れなくては人間とは言えません。
しかし信心をすれば、人の道もわかり人間の幅も広がってきますね。
プラス思考の生き方でありたいです。
自分勝手で利己的な生き方をした願いもいけません。
国と国との争いや戦争も、人の幸せを願って暮らしていると無くなるはずです。
皆の立ち行きを願い、隣近所が皆信心して下さると、世の中は一つとなるでしょうね。
金光教の願いは、「世界真の平和の達成」と大きく幅広い願いです。
全ての人の助かり、全てのことの幸せを目標にしています。
それが信心の一番の願いです。
だから、まず自分の主張は後回しにして、人の喜ぶことから始め、家庭の中の平和を祈ることです。
家族が信心することに反対している方は、隠れてでもお参りをし、家族が理解してくれるように祈ることです。
そして、家族と仲良くして親しく理解してくれれば、お参りにも賛同してくれる様になるかもしれません。
信心とはどういうものなのか、理解してもりえるようになることが大切ですね。
すると神様は導き守ってくださいます。
(親先生のお話より)
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