願いと祈り2008. 3. 1発行


自分の願いが神様の願いに添うていけるように、筋の通った願いになっているか、見直してみましょう。

 「願う」ということについても成長して来ないといけません。

みんな最初は病気のこと、人間関係のことなどと、自分の身近な問題の願いで始まるのですが、段々とこういう事だけで終わるのではなく、「親に喜んで貰えるように」とか、「万人に喜んで貰えるように」とか、もっと大きく、「世界が平和になりますように」「その願いが成就するように、お役に立ちますように」というように広く願うことです。

そうすれば、神様は聞いて下さると思います。

 自分さえ良くなればいいと願うのはエゴの願いです。

こういう願いでは幸せになりません。

「みんな共々に幸せになりますように。」この「共々に」の思いが必要なんです。

「あの人はきらいじゃ。」というような人を名指しにした願いは間違っています。

そういう時は、「共々に気付かせて頂き、共々に成長させて下さいますように」と願うことです。

こうして「共々に」と願い祈っていたら気持ちが変わって来ます。

心が成長し、信心が進んで人の痛みも我が痛みと受けさせて頂けるようになります。

「祈る」時は、そういう祈り方をさせて頂くのがいいと思います。

 相手の幸せを祈らせて頂いていると、やがてそれが本当の願いになっていきます。

人のことを祈ることは徳を頂くことですから、相手の名前を唱えて祈るだけでも実践しましょう。

たとえば、家族の者を、あるいは気にかかる人のことを名を呼びながら祈らせて頂いて下さい。

人に言ったりしないで黙って祈らせて頂くことです。

「真心」は自分の胸にしっかり納めておいて、その人のことをしっかり祈って下さい。

「真心」とはそういうものです。

こうして御祈念をしていますと、祈りが「おかげ」という形になって現れてきます。

そうすると皆さんに陰徳が集まってきて、陰徳を積むという善行になる訳です。

そして、それが祈っている皆さんの上に、また皆さんの子孫の上に返ってきます。

 逆に人を苦しめたりすると、その恨みが自分に返って来ます。その念(思い)は恐いですよ。

だから徳を積ませて頂けるように祈らせて頂きましょう。

すると、人からいじめられたり、苦しめられたりして、つらい目に合うことも減ってきます。

人のことを祈ることは、幸せに向けての一つの稽古だと思って、また、自分の我を除いて頂く練習だと思って稽古して下さい。

必ず実りますから、そう思って努力しましょう。

「祈り」も成長していくんです。

信心が進めば祈りも進み、いつでも、どこにいても常に祈ることが出来るようになります。

 こうしていつも神様を忘れないようにする事が出来るようになる。

神様と自分とのパイプをつないでおくようになれるのです。

 こうして稽古を積み重ねていくほど神様は沢山おかげをくださるようになる。

次々とおかげを頂くようになると信心も面白くなります。

そして、幸せにして下さり、願いをかなえて下さいます。

振り返ってみると辛かったことも全てが、「おかげのなかの出来事でした。」となってまいります。

素晴らしいお道です。



     (親先生のお話より)

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