オスガリ 2008. 2. 1発行

 「神様におすがりする」とはわかりにくい表現ですが、それは『赤ん坊が母親の乳房にしゃぶりつくようなものだ』と、金光四神様は言われております。

赤ちゃんは、自分では何をする力もまだ無い。

母親が乳房を口に入れてくれるのを待っているだけです。

もし、口に入れてくださらなかったら生きていけませんね。

抱き寄せて、乳房を口に入れてくださる姿を信心に例えて下さっています。わかりやすいでしょ。

 こういう信心を私共はさせて頂くようにしなければなりません。

私共は神様にただ泣きついているばかり。

これより他にはありません。

だからこの様子を「おすがり」と表しておるのでしょう。

私共は「自分でやりましょう」と、計ろうてはだめなんです。

左脳で考えて行動するのではなく右脳で行動すること、言い替えるとそれは本能で行動することです。

すがるとはそういう事です。

 人間は本来、神様にすがらないと生きてはいけないのです。

これを説明すると、自分は足りない者だということを自覚することです。

自力でも他力でもない生き方。

ここに神様が現れて救ってくださるのです。

神様は「死」と「生」の間に居られます。

具体的に言いますと、人生には山もあり谷もあるが、それを常に良い方へと思い替えてプラス志向で進む。

「悪いことを言って待つな、先を楽しめ」と思い替えて進む稽古をしていたら段々と明るくなり、内におられる神様が目覚めて現れてくださるのです。

「喜ぶ」と「不足を言う」の間にも神様が居って下さる。

人と人の間で生きているのが人間ですから神様と人、両方を足しての力が自他力です。

 しかし、自他力と言っても、人間の力は本当に微々たる物です。

でも人は、自分の力を過信しすぎるから気をつけましょう。

 自分の力と言うものは殆ど無いのです。

信心に少しでも足を入れ、おかげを頂くと、やはり「自分が、自分で」と考え違いをする事がありますから気をつけてください。

 私共はすべてを「自力」でやっていますが、信心が少しわかってきますと、次第に変わってきて改まりによってやがて本当の事が分かり神様と一つになっていけるのです。

 これが身をもって分からして貰うにはお参りをし、いろいろ山あり谷ありの苦しい目にも遭い、その苦労した体験を重ねて少しずつ身につけていける訳です。実行が必要です。

 世の中には『何で生きているのか分からない。』と言う人が多いです。

せっかく生まれてきたのですから生き生きと生きなければ損ですよ。

生き生きと生きるようにするからこそ幸せになれるのです。

 教祖様も『死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ。』と教えてくださっています。

生と死の境目に神様は居られます。

信じる者は救われますから信心しましょう。

でも実際のところ、よく身についていませんね。

だからいつも難儀をしている訳で、早くそこに気付いて辛抱させて頂きましたら難儀も一つずつ除いていただけます。

そういう事に気付いて行ければ楽にして頂け、「思うままのおかげ」が頂けるようになると思います。

     (親先生のお話より)

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