みき  2007. 6. 1発行

 玉水教会の初代大先生は「神様のおまつりをするのにも、最初は御剣先を壁か柱に貼って拝みなさい。

そのうち段々と有難くなってきたら、自然におまつりするようになってきます。」とお話されています。

皆さんも神様をおまつりできるようになるまでには、随分長い時間がかかったと思います。

家族一同が神様をおまつりした部屋でご祈念ができられるようになったら理想です。

こういう信心生活になるとますます家繁昌のおかげが頂けるようになります。

 教会にお参りされている方のご家庭は、いろいろ教話を聞いておられますから強いです。

お参りしても、ただ拝んで帰るだけでは「信心とは何か」が分かりませんからなかなか自己流が抜けません。

「参る」というのは信心の第一歩であり、お参りしている間に次第に天地の道理も分からせて頂いて、「天地の間に生かされている自分である。」ということも分かってきます。

 人の一生は、一寸先が闇でどうなることやら分かりません。

私どもの力には限界があり、どこまでも偉大なるお方におすがりしながら「死ぬまで生きる」というおかげを頂いていきたいものです。

 神様は、私どもが健康で長生きさせて頂けるように、人智では計り知れない偉大なお計らいをして下さっています。

私どもはすでに生命が無くなっているかも知れませんのに、大難を小難に、小難を無難にと振り替えてもらっているのではありませんか。

こういうことが分かってくると、段々と信心も分かって来る状態になってきます。

 「病気をしていても、これだけで済ませて頂いて有難い。」と思うようになります。

 世の中は無常ですから、若くても老いていても人の生命は分かりません。ですから一生懸命に生きるのです。

神様は、私どもの代だけでなく、親・先祖の代からずうっと今日に及ぶまで、私どもを生かして下さった方です。

いくらお礼を申しても、申し足ることはありません。

生かして頂いて「有難き、恐れ多き、もったいなき」です。

このことを忘れないで、しっかりお礼を申し上げましょう。


     (親先生のお話より)

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