跳ぶ 2007. 4. 1発行 |
「信心する」ということは、倫理道徳を学んでいるのではありません。 倫理道徳や理屈でやっていても限界があります。 そこで、どうしても「おすがりしていくこと」がいるわけです。 「おすがりすることは、どういうふうにする事ですか。」それは、我を出さないで、神様の力にまるまるぶら下がることです。 向こう岸に向かって、ポーンと飛ぶことです。 神様と人間の間には、どうしても溝があります。 だから、そこから飛ばないといけないのです。 溝を飛び越えなかったら、助けてはもらえないわけてす。 人間の世界から神様の世界へ飛んで行くこと。 着地はどうなりますやら分かりませんが、まず飛ぶこと。 「お任せをする」ということです。 「祈る」というのは、そういうことです。 「先生、跳んで飛び込んでみても何も無い。 こういう場合は、どうすればいいのですか。」こういう疑心は、いけませんね。 疑いの心をもって祈ったのでは駄目です。 疑心暗鬼では、おすがりしている事にはなりません。 自分の我が入っているから「祈り」にはなっておりません。 「まあ、やってみよう。良くなるか、悪くなるか、分からないが・・・」というような心より、「ぜひ。どうしても!」の心でないと駄目ですね。 一心におすがりをする。 切なる祈念、切なる願い、思いを持って、疑心暗鬼の壁を破っていくのです。 ある人は、商店街を歩いてお参りした時、映画館の看板を見て、「いい映画をしとるなあ。」と思った。 そして、先代先生のところへお参りしたら、先生のご機嫌が悪かった。 先代先生はお見通しだったのですね。 「参る時には、よそ見をしたらいけん。」と言われたそうです。 だから「祈る」という事の意味は、もっと厳しく深いものです。 願う以上は、お任せをしないといけません。 お任せをしていたら楽です。そうすれば、もう心配はないのです。 神様に全てをお任せし、日々のお礼を言うて自分のやるべきことをさせて頂く。 家庭の中でも、親が「せえ。」と言うことや、子供さん達が「して下さい。」と言うことは、黙ってさせてもらうことです。 私共の今後は、時間は限られているのですから、日々の願いも「切なるもの」であるはずです。 だから、日々そういう気持ちで過ごしておられたらいいのです。 先代先生の言われたように、信心は真剣勝負なんですよ。 家族の信心継承を願うこと。 我が身のことは神様にお任せをして、家族のために何でもする。 そういう覚悟を常にしておくことが大切と思います。 (親先生のお話より) 前ページへ戻る |