信心は心の食事 2006.3. 1発行 |
大先生(湯川安太郎先生)は「私共はこの世に何をしに生まれて来たか。」と問うておられますが、こういうことが分かっていたら、この世に生存する価値が分かってきますから、有り難くなってきます。 しかし、私共はそういうことが分かっていないから辛いのです。 だから先ず「私達は何のために生まれてきたのか」を分からせて頂くことが大切です。 それにはまず「良い習慣」を身に付けることが大切です。 逆に悪い習慣を身に付けていると「働く」ということも横着になってきます。 でも横着をしていては自分が向上できません。 だから、できるだけ動いて「働くことの喜び」を体得していくことが人間として本当の喜びを感じることになると思うのです。 日々自分が置かれている立場を大切にして、その仕事をまっとうすること。 自分のやるべきことを果たすことです。 皆に喜んで貰えるようなことをすることによって、自分も助かるのです。 だから、自分のやるべきことがあるのは有り難いことです。 「荒地・荒れ屋敷を神様はお嫌いなさる。」という教えがあります。だから、少しでも空いた時間があれば、雑草の茂る場所などがあったら、そこをきれいにしていけば良い訳です。 時には友達とおしゃべりするのも良いですが、話の内容も「痛い辛い」と言うのではなく、前向きで明るい内容でやる気を引き出すことができる会話が望ましいです。 こういうことが大先生の言われる「働き」ということです。 私共の行動が「はたを楽にすること」につなかるように心掛けることです。 そして、これが人間の本当の喜びになって行く訳です。 お嫁さんから「おばあさん、お参りしてよくお願いしておいてね。」と頼まれると嬉しいですね。 皆さんは神様にお届けし、お願いする係ということです。 皆さんは教会と家族をつなぐパイプになって頂けば良い訳です。 こう頼まれたら皆さんもやりがいがあります。 皆に理解して貰えるのは有り難い事。生かして頂いている甲斐があると思います。 このように頼りにされたり、優しく声をかけられたりするのは嬉しいものです。 逆に「暗い人じゃ。面白うない。」と人にささやかれるようになったのでは悲しいですね。 だから、人に呼んで貰える立場にして頂けることを喜ばないといけません。 私は人間の幸せというものは、自分がどうあるかということだと思います。 「うちの若い者は未だ信心は分からん」と言いますが、そんなことはありません。 これは神様からそなえて頂いた人間の本能です。 大先生は「信心は食事と一緒じゃ」と言っておられます。 食事を摂らなければお腹が空いて死ぬのと同じで、信心は精神的に食事をするようなものなのです。 誰でも信心という糧は食べられます。 ただ口に入れたらいいのですから「食べ方が分からない」ということはないのです。 (親先生のお話より) 前ページへ戻る |