宝の山 2005.11. 1発行 |
銀座の大先生は、「宝の山に居りながら、それを知らぬこと。」とおっしゃっています。私共は宝の山に居りながらそれに気付いていないのです。 何にも見えないから何も無いように思っていますが、大変なお徳の中に生かされているのです。 だから有る≠ニ気付けばそれに触れることが出来るし、無い≠ニ思うと頂けない。 私共は欲しい物が沢山ありますけれども、それは大したことではない。 それ以前に生きる為に必要なものをいっぱい頂いてなお、その上に欲しい≠フです。 仏教には無一物無尽蔵という言葉がありますが、これは「無いようだが有る。」ということです。 自分のものは一切無くね全てが神様の御物であるということです。 こうして今まで生かして頂いてきた。 無尽蔵の中で育てて頂いてきたのですが、死んでしまうと無くなります。 人は無から生じてまた無に帰るのです。 だから何も無いが有る訳です。 誰も同じように歳を取りやがて死ぬ時が来ます 。その中でなかなか自分の思い通りになりませんが、ここを「全て神様のお計らいだ。」と受け止めさせて頂いて信心で捉えさせて頂くということです。 だから何か事が起きた時も自分で解決しようと思わないで、その問題をよく神様にお願いし、今までのご無礼をお詫びし、改まりをしてしっかり祈っていきましょう。 「何がおかげか。祈って思い通りになるのなら、みんな信心するわ。」という方もおられるかも知れませんが、先ず私達が神様の現れ、この地上が神様の現れです。 天地のお働きは全く素晴らしく、その力は無尽蔵です。 神様のお働きは尊く素晴らしいものです。 そして私共に「もっと元気になって、お役に立ちなさい。」と願っておられるのです。 だから私共はそれぞれに辛いことや苦しいことがあっても、もう少し辛抱しましょう。 そのためには「受けもの」を作ること。 おかげが入る受け物を造って「私はどんなことを言われても受け入れられるぞ」と言えるようになりましょう。 「私は何も出来ないが神様にお願いをしたら神様はしてくださる。」と思って大きい心になって受けてください。 すると心がドンドン広がって本当に何でも出来るようになります。 そして「人事を尽くして天命を待つ」で、やることをやった後は神様にお任せしておくと良いのです。 一生懸命に神様にお縋りしながら出てきたことは全てがおかげなのです。 「おかげは我が心にあり」ですから、自分が心豊かであれば大丈夫。 全てがおかげです。 いくら苦しいことても「神様にして頂こう」と祈り縋りながら進めていくと結構、問題を乗り越えて行けます。 「出来ん。」と言いながらも努力していく間に知らず知らずに間に出来てきます。 こうなると自信が出てきて「大丈夫」という思いが働くようになり心が広く豊かになる。そして「どんなことが起きても、この神様一本で進ませて頂きたい。」というふうになれます。 するとじんな事に出会っても驚かない。 楽しみになります。 「神様はこの問題をどのようにしてくださるか」と楽しみが出来てきて、生きることの素晴らしさを思い、「神様がここまでお働きくださって有り難い。」と感謝の心でいっぱいになるようになります。 (親先生のお話より) 前ページへ戻る |