伝 承  2005. 9. 1発行

 「勿体ない」という言葉がありますが、これは日本語だけにある言葉で、他国には無い言葉だそうです。

だからこの「勿体ない」という言葉を外国の人達は大変気に入っているそうです。

 なぜかというと「いのちを粗末にしない。」ということだからです。

この天地の間に生まれたものは全て神様の御物で、一つひとつに生命があるということです。

石も木も人の体もいろいろな物質の組み合わせでできています。

 最近は遺伝子を操作してクローンを作る技術も研究されていますが、将来は宗教的な問題がイロイロ出てくるでしょうね。

「生死」についても心臓が止まったら死なのか、脳が停止したら死なのかという議論もあります。

 何にしても生きている間が花です。

生きている間に極楽に逝かせて頂ける自分でありたいと思います。

天地の間にこうして生かして頂いて「私は有り難い一生であったなあ。」と思えるようであったら、すばらしいだろうと思います。

 私共はみな生身の人間ですから生活していく上にいろいろ問題がありますが、こんな事は生死の際に立てば問題にはなりません。

 ただ「私の一生は苦労の連続だった。」では悲しいですね。

苦労したことが「良いことだった。

有意義であった。」と思えるようなそんな信心をお互いしていきたいものだと思います。

 私共は何のために生まれて来たのでしょう。

ここが分からないと辛いですよ。

だから私共はこうして何のために生まれて来たのかという勉強をさせて頂いているのです。

 いくら生きていても自分が助からなかったら「生きた」という価値はありません。

たとえ短命であっても有り難く思えるならば、もうそれで生きた価値はあるのです。

 それぞれ生命の長い短いはあります。

幼くして亡くなる方はその人の修業はもうそこで終わりなのです。

反対に長生きの人は長生きをして修業をしなさいという思し召しだと思ったら分かるでしょう。

 だから人それぞれに課せられた修業があるのだと思います。

寿命は自分でどうこうできるものではありません。

 先代先生は「病気では死なん。寿命で死ぬんだ。」と言われています。

私共が病気になるのは病気を通して生命の有り難さを神様が教えようとしてくださっているからです。

 病気は「気の毒」と書くように気が病むからです。

「病気」を「病体」とは書きませんね。

「生かされている」という生命の喜びが足りないから「もっと喜びなさい」と言っておられるのです。

 こういうことも病気をしなかったらなかなか気付きませんね。

「自分が悪いから改まろう。」とは誰も思わないでしょう。

そしてなかなか自分の思い通りにならないから腹を立てたり不足を言ったりしているのです。

 「真の信心」とは、今起きていることは神様の思し召しだと気付かせて頂くことです。

生かされて生きているのに自分が生きようとしているから辛いのです。

 自分の都合をお願いするだけならちょっと参っただけでよろしいですが、私共は家族の都合も頂いていかないといけませんので、しっかりお参りし教えも聞いて信心を進めていきませんと、いつまでも辛いばかりです。

辛いからお願いする。

でもまた辛いことが出てくる。

この繰り返しでは助かりません。

 私共がまず「生かされて生きている」という勉強をさせて頂いて、家族の人達にもぜひ伝えてください。


     (親先生のお話より)

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