天地をつかまえる  2004. 11. 1発行

 安心ということは、人間の力ではできないことです。確かな安心ができるだけのものをつかまえてこそ安心ができるのです。

 その安心ができるものとは何か。それは天地をつかまえるより他にはないのです。「天地をつかまえる」と言ったら誰も文句はないでしょう。

 私共はついつい目先のことばかり気が向いてしまって迷ってしまうことが多いですが「天地に縋ってほしい」と天地が居られるのです。「木の杖は折れる。金の杖は曲がる。神を杖につけば楽じゃ。」と立教神伝にも出ています。

 「助けてやるから縋れ」ではなく「どうぞ助かって欲しい。氏子が助からねば神も助からぬ。」と氏子に向けて頼んでくださっているのですから、もったいない事です。

 おかげを頂いてない人なんかいないでしょう。「天地のお恵み」をいっぱい頂いてこうして生かして頂いているんですが、私共はなかなかそういうことが分からない。

 そして自分の力でやろうとして苦しんでいる。こういう状態ですから人間は難儀なものです。だから神様は「難儀な氏子よ」と呼びかけてくださっているのです。

 世の中に難儀でない人はおりません。なのに己が力で解決しようと力んで苦しんで、天地のご恩を分からないまま死んで行く人が多い。

 でも私共は有り難いことに、こういう「天地のご恩」について教えられ分からせて頂いております。

 玉水初代大先生も最初は「信心というたら面倒くさいものじゃ。格言集のできそこないのようだ。」と思われた。しかし段々と分かるほどに「真にご無礼であったるいかに天地のお恵みのすばらしいことか。教えのすばらしいことか。」と悟られた。

 私共は朝から晩まで、いや眠っている間も神様に祈られ通しに祈られている。今朝も目覚めることが出来て、こうしてお参りができて、なんとすばらしいことでしょう。

 なかなか気付かないですが、神様に昼も夜も守られ通しに守られて生かして頂き、そしてご神前へお引き寄せを頂いているのです。

 眠れること、息の差し引きのできること全てが有り難い。
 「ぜんそく」のお届けも多いです。息が吐けること、吸えること。「当たり前」と思うようなことが当たり前にできることは有り難いことなのです。

 空気があることは有り難いこと。お礼が足りないです。天地の恵みは有り難い、もったいないものです。空気とか水とか一番安い天地のお恵みが一番尊いものですね。

 家族も同じです。親子とか夫婦とか一番身近の人に一番世話になっていますが、それは"たまに"です。一番身近な人が一番世話になっている人ですから、責めたりしないようにしましょう。

 遠慮がないから恨んだり、粗末にしたりしやすいですが、無くてはならない人達です。「空気と同じような存在の人達がいる」というのは有り難いこと、すばらしいことです。


     (親先生のお話より)

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