生活信行  2004. 10. 1発行

 湯川安太郎信話第一集に『助かる道で、助からぬ信心をしてはならぬ』という所があります。私共はせっかく天地繁栄の道に置いて頂いているのですから、信心させて頂く以上は、おかげを頂いていかないといけません。

 「おかげを頂く」という意味は深いです。上辺だけを見ていては分かりません。要は「自分の都合の良い事だけが、おかげではない」ということです。私共人間は、都合の良い事だけをおかげのように思いがちですが、そうではなく天地の道理に合う生き方をさせて頂くこと。これが神様が一番お喜びになられることです。

 そして神様が喜ばれれば私共も幸せにさせて頂けるのです。だから理にかなう生き方を見つけさせて頂くことです。

 私共は「助かる信心のおかげを蒙らせて頂きたい」と切に思います。しかしいくら「おかげを頂いた」といってもそれが身についていないとダメです。いくら目先が良いといっても、そこで終わったのでは困ります。

 私共は「生活、即信心」でなくてはいけません。教会へ御参りしている間だけが信心ではありません。

 朝参りをしたあと、勤めに行かれるとか、家業をされるとか全てが信心です。このように思うと楽ですから「自分でやろう」と思わないことです。「全て神様のお力を頂いてさせて頂くんだ」と思えば楽です。

 夫婦の間でも、親子の間でも「ああ、これが私の修行じゃ」と思えばいいのです。

 それなのに「なんであの人は私に対してあんな事を言うんだろうか」と腹を立てる。これではいくら御参りをしていても、おかげにはなりません。助かる生き方を実践していきましょう。

 ああ、神様が人さまの口を通していろいろ教えてくださっているんだ」と思うと楽です。神様はこうして私共を育ててくださっているんです。死ぬまで修行です。

 でも「いやそんなことはない」と思っているから腹が立ち、人を責めるのです。

 これでは信心は少しも進みません。そして助からないことになって最後には「お願いしても少しもおかげを頂けない」と神様の不足を言っています。

 今日も一日の修行が始まりました。朝起きたこと、そして朝食の準備。これらは全て神様の修行だと思うこと。良いことがあれば「有り難い」と思い、都合の悪いことがあれば修行だと頂いてください。
 「何で私ばかりが」と不足を言っていると、おかげを落としてしまいます。財布にお金が少ない時は「今日はこれだけでやっていけ」と言っておられるんだと思えば良いのです。

 何事にも不足を言わないで修行と思い、有り難く受けさせて頂くと、神様は可愛く思ってくださり段々と豊かにしてくださいます。そして遂に人さまにも差し上げられるようにもなります。

 ケチな人は人にあげることは嫌。だから豊かになれないのです。もっと大きい心になって、人にも分けてあげられるような気持ちになってください。人に尽くさせて貰えるようになれば豊かに暮らさせて頂けるようになります。


     (親先生のお話より)

 前ページへ戻る