一日一生  2004. 4. 1発行

 私共は今を生きているのですから、死後ではなく生きている間に助かる信心をしないといけません。

信心は理屈ではなく日々の実践ですから、毎日の生活を極楽へ行くための日々の信心実践だと考えたら良いのです。

夜休む時に「ああ今日一日良い日だったなあ」と思えるような実践を出来れば良いですね。

 「一日一生」朝起きて夜寝るまでが一生です。

「今このままで満足。今死んでも私は満足じゃ」と思えるような時を過ごさせて頂きたいものですね。

またそう思えるように工夫をしてください。

「誰かがしてくれるじゃろう」ではいけません。

 「おかげは我が心」です。

今日一日を大切に、明日のことを思うのではなく、目の前にある"今日"を充実して生きること。

「死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ」の教えの通りです。

 また「生きて安心。

死んで安心」という教えもあります。

生きようが死のうが神様のみもとから離れることは出来ないのです。

あの世へ行くということは表通りから裏通りに抜けたようなものです。

 金光教は「生きたままで極楽へ逝く道」だということです。

 皆さん「私は有り難い」と思える日が何日あるかカレンダーに印をつけてみてください。

一つも無い人もいるでしょうが「至福の時だ」と思うときがときにはあるでしょう。

孫や子供に囲まれて家族団らんの時に「もし今私の息が止まってもこの時が至福のとき。

後は皆で良いようにしてくれるじゃろう」と思えるときが、一番の極楽ではないでしょうか。

 先代親先生は「身内の者が可愛いという気持ちが抜けない」とおっしやっていたそうです。

他の事はなんとか処理できるようになったが、我が子が可愛いという気持ちは抜くことが難しいと言っておられたそうです。

 皆さんも「身内が可愛い」という気持ちはなかなか抜けないでしょ。

人情と申しますが我が子や家族は可愛いもの。しかしある程度までいくと、これが執着になるのですから難しいです。

 昔は子沢山でしたから嫁に出すのもあせったものですが、最近は子供の数が少ないですからいつまでも手元に置こうとする。

親は勝手なものですから「いつまでもそばに居てほしい」と思います。

でもこれでは道がつきません。

家族水いらす゛でいつまでも続くのが一番良いのでしょうが、それではいけないのです。

成人になったら離れていくのが道理です。

 「執着を取る」とは日々の心がけが「ワシが」にならないようにしていくこと。

これが一番大切で難しいから骨が折れるのです。

みんなも誰も我が子が可愛い。しかし泣かさないといけないこともある。

これも修行です。

 なかなか「いつも極楽」とはいきませんが、「一日が一生」という気持ちでやってください。

遠い昔のことを思い出して、苦しんだり卑下したりすることはいりません。

ずっと先のことまで思い悩むこともいりません。

 教祖様は「昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめ」と教えてくださっています。

これが信心の行き方です。

今をしっかり喜ぶこと。

いくら昔は良かったといっても今を喜べないようでは何にもなりません。

 極楽浄土は遠くにあるのではありません。

今ここにあるのです。

私共はそれを気付かせて頂けるように日々の稽古に励まないといけません。

私共は日々こうしてその執着を除く研究をしているのです。

 どうすれば先代先生が説かれているような信心ができるか、極楽に近づけるように頑張りましょう。


     (親先生のお話より)

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