わしゃ知らん  2003.09.01発行

 「ワシが」という心は恐いです。これはどこで出てくるやら分かりません。

いつもお話している所ですね。「不足を探さないで喜びを探しなさい」です。

 中には「信心してもおかげが無い」と言う人がおられますが、そういう人は不足を探しているので、そうではなく喜びを探すこと。

「神様のおかげ」を探すことです。

 そのためには教話を聞くことが必要です。

教話を聞くからこそ信心も進むのです。最初はなかなか信心も進まないで行き詰まることもあります。

 なかなか喜べなくて、人の悪い所だけが目に付いて人を責めたりしがちになり、「何でこんなに人を責めるんだろうか」と悩むようなことがあります。

 しかし、このように悩むこともおかげです。

悩まないようでは、これも大変です。人は行き詰まり悩むから改まるのです。

最初から悩むこともなくスムーズに行っていたら余計に分からなくなる時が必ず来ます。

 信心しているものは悩むのが当然で、悩まないのはおかしいです。

 先代先生は「○○については何年かかった」とおっしゃっておりますね。

 私共は「先代先生には偉大なお徳があるのだから、そんなにご苦労をなさらなくても」と思いますが、そういではないのです。

先代先生は一つ一つについて悟られるまでに、じっくりと時間をかけて取り組んでおられるのです。

自分の我を取るための稽古、特に「かわいい」という感情を取り除く稽古を。

 「我が子がかわいい」これは当然の感情です。肉親が可愛くないようでは人とは言えませんもの。

しかし、私共は可愛さあまって子や孫を甘やかしすぎるのです。

 そして可愛いから自分は信心しているのに、その信心を伝えていかないのです。

体が減るように思うのでしょうか。

うちの者にはあまり苦労をさせてはいけん。無理をさせないようにと考える。

 しかし、大先生は「信心の苦労は買ってでもやりなさい」とおっしゃっています。

この苦労は報われるものです。逆に人間が種をまいた苦労は報われません。

 親としては子や孫は可愛いから少しでも楽をさせてやりたい。

苦労させたくないと思うものですが、これでは立ち行きません。

 「可愛い子ほど旅をさせよ」です。

可愛い子ほど外へ出して苦労させること。

しっかりしてもらわないといけません。

生きていくというのはなかなか厳しいものですから。

 教祖様は「まず、よその子を起こして、我が子はその次に起こしてやりなさい」と申されてますが、あれです。

そうしてこそ神様はお喜びくださり徳を頂く元になります。

 また皆さんが病気が治って健康のおかげを頂いた時、人の苦しむ姿を見たとき「人のことなんか私は知らん」という態度なら、せっかくのおかげを落とします。

 だから病気のおかげを頂いたら、他に同じ苦しみの人がいたら自分がおかげを頂いたことを話して、その人にもおかげを頂いてもらうようにしましょう。

人に話して人助けの手伝いをするのが神様に対してのお礼です。

 好きでない人のことなら余計に「知らんぷり」になりやすいですが、黙っているのはいけません。

信心の種は、実意・丁寧・親切・正直です。誠心誠意、真心でやらせて頂いてこそ神様へのお礼になります。

だから細々とした体験でも人に話して伝えていくことが必要です。

 「あの人に言っても分からんじゃろう」と思っていても、言ってみないと分かりません。

案外「分からんじゃろう」と思っている人が分かってくれて、良く分かったような顔をしている人が、分かっていないことがあります。

 親は子が可愛いからかばうのでしょうが、やたらにかばうのもいけませんね。

それよりもしっかりと信心を伝えてあげてください。


     (親先生のお話より)

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