「足の裏に・・・ 」 2003. 5. 1発行

 「神様は、どこにでも居られるのだから、じっと家に居て拝んでも良いのじゃないか。」これは理屈に合わないことです。

 何かことがあったら「じっと家で辛抱して」という訳にはいきません。足を運ばせて頂いてこそ値打ちがあります。

 先代先生は、このようにお参りのことを話しておられます。お参りをするということは、心の本音に思いを刻んでいくということです。心に刻み付けていくと願いもはっきりしてきます。だから、体を使って何度も繰り返しお参りをさせて頂くことによってだんだんと強く心の中に刻み込まれるだろうと思います。

 やっぱりお参りも足運びするのと家の中から拝むのとでは違います。軽い気持ちで参っていたのでは、なかなか神様に届かないのではないかと思います。玉水の初代大先生は裸でご祈念をしたりして、いろいろと確かめてみられましたが、結局「裸のご祈念は、どこまでも裸のご祈念である。」と分かられました。

 風呂の中からでも、トイレの中からでも、どこからご祈念をしても何も別に悪いことではないのでしょうが、そんなのでは、やっぱり真心は出ない。神様には思いが届かない。

 でも私共は、苦しい時には「苦しい時の神頼み」で、あたりかまわず拝んでおります。足運びでも日々一生懸命に参っている人は「お参りする時の下駄の足音も違う」とおっしゃっていますが、全くそいうですね。

 私共はお参りをしなかったら、神様に心を向けると言ってもなかなか一心が届かないですね。
やっぱりお参りをすることが一番てっとり早い具体的な信心を表す方法です。

 神様に真心をわかっていただくためにもお参りをするということが要りますね。

 長年お参りしているこ人はこんなことも、もうよくお分かりでしょうが、お参りしない人にはどうしたらよいでしょうか。ひどい人は年に一度という方もあります。こんな参り方では神様のことは忘れて、神様は抜きになって自分で物事をするようになります。

 普段お話を聞いている人と聴いていない人では理解力がだいぶ違います。

 特に研修会に参加することなどは良いことですね。他教会ではそんなことはなかなかありませんよ。スタッフがいないと出来ません。私共はいろんな行事を通して信心の話をする機会も出来るようになりますね。

 社会へのご用奉仕でも皆でやっていくことが大切です。
個人的には助かっていても、世の中がこういう状態では、なかなか助からないです。

 皆さんのご家族もみんなが助かって、それぞれが足並みを揃えないと本当の幸せにはならないでしょ。
だから皆さん連帯して頑張りましょう。

     (親先生のお話より)

 前ページへ戻る